重岡くん大好き、最近千鳥のノブも大好き、ついにウイスキーを買ってハイボール大好き
どうも、だめ社会人です。
今日はオタクごとじゃなく、私のしょうもない身の上話をします。母にも妹にも友人にも上手く伝えられない気持ちを書きます。
もうダメだと思ったとき
全部消えた気がしたとき
守るべきものに守られていた日々に
気付くでしょう
その日が訪れたのは、2016年9月19日。
翌日に誕生日を控えた3連休の月曜日。
私の父は違う世界へいきました。
悲しいかな、そのときに、世界はこんなにも色をなくすのかと初めて実感しました。私は、もう息をしていない父の病室で三角座りをしてただただ泣いていました。母も姉も妹も悲しそうだけど、何食わぬ顔をしていて。「わかるわけない」と思いました。父に顔を見せ、出かけ先でのことや美味しかったもの、楽しかったこと、職場であったことを話したのは私だし、父はそれた楽しみにしてたから。家を出てろくに親孝行もしない姉や、独り暮らしをしてのんきに過ごしてる妹に、同等か悲しみなんて感じられるわけはないと思います。
その前日、父の病室に行った私に父は家にあるガーゼを取ってきてほしいと頼みました。往復することを渋りながらも家からガーゼをもってきて、父に渡しました。きっと父が最後に見たわたしは、少し不機嫌だったんじゃないかなと思います。それでも、前日に父に会えたのはわたし。その事実は、道のりがしんどかったお見舞いをしていてよかったと思えることの一つ。
父は私にとって良き理解者でした。
病気になってからは長く、1年ほどはホスピスという場所で過ごしていました。ほぼ毎週、私は車で40分の病院へと通いました。めんどくさい日も、ライブで行けない日もありました。それでも父は、私が行くといつも「ありがとう」「ごめんね」を言っていたような気がします。私はお父さん子だったので、父でも食べれるプリンやゼリーをお土産に買っていったりしていました。
少し風邪気味でマスクをしていて行ったときに、「大丈夫か?無理しないようにね」と言われ、帰りの車で涙を流した気がします。そんなときまで、子どものことが心配なんだなと親になったことのない私は思いました。
私は、1人では生活のできなかった父にさえも、守られて生きていたことを感じています。
あれから1年。
当然のように1つ年を取り、冬はライブ三昧、しかも散々受からなかった試験に受かり、春から正規採用され働いて、なんてことない毎日が続いています。
どれだけ悲しくても、辛くても、世界は回るし、世の中は変わっていく。どんなに悲しくても、時間はすぎるし、お腹はすく。どんなに悲しくても、楽しければ笑う。
父のいない世界はどこか物足りないと思いながらも、それが当たり前になっていくことが寂しくて悲しい。年数が経つに連れ、慣れていって、父のことを忘れてしまうんだろうか。それってすごく悲しい。
1年。短いようで長かった。でも私には必要な時間。誕生日前日が父の命日なんて、忘れられるわけない。私に覚えていてほしかったんでしょ?お父さん。